教育、学び、そして学校 〜 注5

公開: 2024年2月4日

更新: 2024年2月4日

注5. 無条件降伏

第2次世界大戦で、1945年5月にドイツが連合国に対して降伏した後、米国、英国、ロシアの首脳がドイツのポツダムに集まり、戦後世界の統治について議論しました。ここでは、戦争を終わらせるために、日本に対して降伏を促す条件についいても議論されました。この会議で、米国のトルーマン大統領は、日本軍に対して、「無条件で敗戦を受け入れる」無条件降伏を要求することを主張しました。この会議の途中、トルーマン大統領は、長崎型のプルトニウム原子爆弾の実験に成功したとの報告をうけ、チャーチル英首相にも伝えました。

この後に、日本に対して発表された連合国の「ポツダム宣言」に対して、日本政府は、「この宣言を無視する」と、宣言しました。それは、1945年6月の天皇を交えた会議で、「ロシアを仲介国として、敗戦条件に関する交渉を始める」との方針を決定し、ロシアのスターリン首相宛に使節を送る準備していました。その敗戦を受け入れる条件には、「天皇制の維持」が盛り込まれていました。つまり、大日本帝国憲法を変えないと言う主張が盛り込まれていました。

1945年の2月にロシアのヤルタで開かれた会議において、当時のルーズベルト米大統領は、ロシアのスターリン首相に対して、ドイツ降伏後、5か月以内のロシアの対日参戦と、カラフトをロシア領とすることを認める密約を提示していました。これ以前、ロシアは、日本との不可侵条約の延長を停止しており、対日参戦の準備をしていました。このため、日本政府からスターリンへの要請を、ロシアが受け入れる可能性はありませんでした。日本政府は、最後まで、「国体の護持」の主張に固執したため、終戦受入れの機会を逸し、膨大な損害を受ける結果となりました。

参考になる資料